Column

青空の演奏会

最近、クラリネットを始めた。
これまで楽器に縁もゆかりもなかった男の突然の行動に、妻はポカンとしていた。
それでも、人生の折り返し地点を過ぎて、無趣味というのはよろしくない、と。
セカンドライフをぼんやりと過ごすよりはずっといい、と妻は言う。
苦笑いしながらも受け入れてくれる度量の広さに、さすが我が妻、と心の中で賞賛を贈る。
口にはしない。
あくまでも、心の声だ。

クラリネットとのそもそもの出合いは、はるか昔に遡る。
あれは…そう、小学3年の社会科見学だった。
クラシックの演奏会なんて、小学生には拷問のような時間だが、なぜかクラリネットの音色に心を掴まれた。
どっぷりと夢の世界にはまり込む同級生たちを尻目に、身を乗り出すように演奏を聴いていたことを覚えている。

それ以来、ずっと気になっていたクラリネット。
大人になってからは、こっそりと演奏会にも足を運んだ。
けれそ、そんなことは誰にも話したことはない。
なぜかって。
まったくもって柄じゃないからだ。

けれど、この歳になってふと思った。
似合わないとか、恥ずかしいとか、世間の目や評判を気にしてどうするのかと。
何を我慢する必要があるのかと。
人生もそろそろ終盤戦だ。
ならば、もっと自分に正直でいいじゃないか、と。
そう思ったら、矢も盾もたまらなくなり、気がつけば、クラリネットを買っていた。
そんな自分の行動に、妻以上にびっくりしていたのは自分だ、というのは内緒だ。

ところが、いざ、はじめてみると、クラリネットはなかなかの難敵だった。
もっとも、楽器経験ゼロの中年男なのだから、まあ、結果は見えていたとも言える。
空いた時間にカラオケボックスに通い、ひたすら練習に励むが、上達どころか、まともに音すら出すことができない。
覚悟を決めてカルチャースクールを探しても、クラリネット教室は見当たらず。
YouTubeのノウハウ動画もあまり役には立たない。
己の進歩のなさに心は折れかけていた。

そんな時、妻が友人から別荘に誘われたので一緒に行こう、と言われた。
なぜか、クラリネットを持って行こうと言う。
正直、あまり乗り気にはなれなかったが、たまの妻孝行だと思い、出かけることにした。
妻の友人の別荘は、緑に囲まれた広々とした場所にあった。
隣の家まではかなり距離がある。
まるで、この世界をひとりじめしているような解放感が心地いい。
ランチをごちそうになった後、アフタヌーンティーは庭で、という流れになった。
すると、妻の友人の夫は、おもむろにクラシックギターを取り出した。
どうやら青空演奏会と洒落込むらしい。
……が、その腕前はかなり微妙なものだった。
妻の友人は、下手の横好きなのよ、と笑う。
すると我が妻も、うちも似たようなもの、と言って笑った。
しかし、当の本人はそんな評価などどこ吹く風。
実に気持ちよさそうにギターを奏でている。
その姿を見て、あぁ、そうだったと思い出す。
下手だとか何だとか、世間の評価を気にしてどうするのかと。
自分が好きなように演奏すればいいじゃないか、と。

広い空に向かって、クラリネットを吹いてみる。
相変わらず、かすれたような音しか出せず、演奏なんて呼べるレベルではないけれど、心がウキウキと躍った。
妻ふたりは、呆れ気味に下手っぴな新米ミュージシャンを見守っている。
けれど、その顔はとても楽しそうで、何とも幸せな時間がそこに流れていた。

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