Column

穏やかな時間をキミと一緒に

今日も釣り道具一式を担ぎ、近所の川まで歩く。
よっこらしょっと川辺に腰を下ろしたら、日がな一日、釣り糸を垂れてまったりと過ごす。
穏やかで、少し退屈な時間。
それを人は「余裕」なんて呼ぶのかと、思ってみたりする。
こんなひとときが持てるなど、会社員をしていた頃には想像してみたこともなかった。

振り返ってみれば、若い頃はバブル景気の真っ只中。
当時はまだ下っ端だった故に、好景気の恩恵を受けた記憶はほとんどなく、ただただ忙しかったことしか覚えていない。
「24時間働けますか?」なんてCMソングが大ヒットするような狂乱の時代だったのだから、さもありなんだ。

 

バブルが弾けた後も、仕事が減らなかったのは不幸中の幸い…いや、忙しさは変わらず、予算だけが削られていったのだから、幸いではないな。
それでも、どん底の不景気に突入する中、仕事に困らないだけマシだったのだろう。

そんな風に慌ただしい日々を送り、気づけば定年を迎えていた。

妻の希望もあり、マンションを売って都会を離れることに。
ふたり暮らしにちょうどいい、程よくコンパクトな隠れ家のような家に移り住んだ。
アウトドアを楽しめるほどアクティブな質ではなく、家庭菜園にハマるほど根気強くもない。
趣味らしい趣味もなく、これまで仕事しかしてこなかった私は、楽しげにスローライフを満喫する妻を尻目に、ポッカリと空いた日常を持て余していた。
そんな私に、嫁に行った娘は、ぼんやりしてばかりいるとボケるよ、と辛辣だ。
口が悪いのは誰に似たのやら。
それでも、見兼ねて、釣りでもしてみたら? と薦めてくれる優しさもある。
こんなところも妻にそっくりだな、と思う。

せっかくの娘の忠告。
私は素直に聞き入れ、まずは釣り道具一式を買い揃えることにした。
初心者が川釣りをするなら、ウキ釣り仕掛けがいい、とネットで知り、それを購入。
ウキがセンサーとなって、魚が餌に食いついたことを知らせてくれるのでわかりやすいらしい。
急流だと仕掛けが流されやすいようだが、幸い、移住した隠れ家の近くにある川は流れが緩やか。
そういう点も初心者にやさしいようだ。

最初こそ、釣れた釣れないに一喜一憂していたが、今は釣り糸を垂れている静かな時間を楽しんでいる。
誰にも邪魔されず、時間に追われることもないひととき。
それはまるで、時間が止まったような穏やかさだ。
時折、ピョコピョコと反応するウキが、唯一、たしかに世界が動いていることを教えてくれる。

今日は珍しく、妻が釣りについて来た。
予備の釣り竿を貸してやると、妻は私の隣りにちょこんと座る。
しばらくは、お互いに黙って釣り糸を垂れていた。
昼どきが近づき、腹が減ったなと思っていると、何も言わずとも、妻がスッとおにぎりを差し出す。
温かいお茶も忘れない。
このタイミングの良さ。
長年連れ添った夫婦ならではの阿吽の呼吸ってやつだろう。
すると妻は、こちらの心の内を読んだように、私もお腹が空いたから、と言う。
言葉にしなくても伝わるなんて、そんな都合のいいテレパシーはない、と笑った。

それから、私たちは日が暮れるまで、寄り添いながら、黙って釣り糸を垂れていた。

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